2022-08-29

コラム8:「富士そばのBGMは会長作詞の演歌」説は本当か? 会長の人生を振り返って、検証してみた。

 富士そばウォッチをはじめて9年目になりますが、いまさらながら、富士そばと演歌の関係性を調べてみました。目的は「富士そばは、会長作詞の演歌をBGMにしている」というウワサを検証するため。
 じつは、こうしたウワサが立つのも無理からぬこと。創業者の丹道夫会長は、演歌の作詞家として活動していたし、店では年中演歌が流れているのですから。しかしながら、「会長作詞の演歌をBGMにしている」との言説は誤りです。正しくは「会長作詞の演歌BGMにしていた」。独自調査で行きついた仮説ですが、少なくとも「会長作詞の演歌をBGMにしている」ではない。

BGMの演歌が哀愁を誘う。

 丹会長に直接話を聞ければすぐにでも解決するのですが、いちユーザーの筆者にはそれも叶いません。そこで、会長の著書やインタビュー記事を頼ることにしました。
 様々なメディアで取り上げられているように、丹会長の人生は演歌そのもの。その足跡を辿ると、富士そばで演歌が流れているのも自然の流れなのだと感じられます。
 それでは、どのような経緯で今回の結論に至ったのか。会長の演歌エピソードとともに振り返ります。※前置きが長いので、結論を急ぐ方はこちら

今回活用した、おもな資料。とくに『らせん階段一代記』は”富士そば前夜”を収めた貴重な資料となっている。

演歌に支えられた、孤独な奉公時代

 丹会長が演歌の世界に引きこまれたのは1950年、15才のころでした。当時、愛媛県大保木村(1956年に西条市に編入合併)で暮らしていた丹少年は、知人の紹介で油屋の丁稚奉公に出ます。店番を任せられ、日がな一日ガソリンや軽油を売っていました。
 日中は同僚もいてにぎやかですが、夜は住みこみの丹少年だけが残されひとりぼっちに……。根っからのさびしがりだった丹少年は、ラジオから流れてくる演歌を心の支えにして孤独な時間を耐えました。とくに竹山逸郎さんの唄う「愛染橋」に感銘を受け、作詞への興味が芽生えます。 
※資料によっては16、17才ごろのエピソードとして語られている。

不動産業の合間に、作詞の通信教育を受講

 丹会長の人生を一言で表現するなら「紆余曲折」に尽きます。10代から20代にかけてはそれが顕著で、居場所を求めるように炭鉱、印刷会社、新聞配達、病院、料理学校……と、転職を繰り返します。その生きざまは、あたかも川の流れに翻弄される木の葉のようです。
 東京への強いあこがれもあり、27才のときに4度目の上京を決行。給食センターに住みこみで務めたのち、独立して弁当店を開業します。
 その後、知人と共同で不動産業に進出。未経験の別荘ビジネスにはじめは苦戦を強いられますが、上手く不動産ブームが重なって売り上げはうなぎ登りに。30歳前後にして、従業員1200人を束ねる経営者へと登りつめます。
 経営に余裕が出た丹会長は、作詞家・岩瀬ひろし氏が主宰する通信教育を受講。以降10年間に渡り、作詞のノウハウを学びました。当時から大器の片鱗を見せていたようで、女性の揺れる恋心を描いた詞「かづら橋」が講師から高く評価されたそうです。
※資料によっては45才から通信教育を受けはじめた、とある。

いまはなき渋谷一号店。店内には会長が作詞した演歌のポスターが貼られていた。

富士そばの経営が軌道に乗り、作詞学校へ入学

 丹会長が作詞を本格的に学びはじめたのは、55才になってから。このとき、すでに不動産業から撤退しており、富士そば経営に専念していました。目標店舗数も80%(50店舗)を達成。自分へのご褒美にと、六本木にある作詞教室に通い出したのです。
 それからは原稿用紙を持ち歩いて、仕事の合間に詞を書きためる日々。ようやく夢の第一歩を踏み出したものの、楽しいことばかりではなく、生みの苦しみも味わいました。ワンフレーズがどうしても浮かばずに、夜明けを迎えたこともあったのだとか。
 そして教室入学から7年が経過した1997年、とうとう努力が報われます。なんと、歌手・白鳥みづえさんに詞を提供することになったのです。タイトルは「母娘舟(おやこぶね)」。遠く離れても途切れることのない母娘の絆を描いた詞で、どこか単身で上京を果たした丹会長の半生と重なります。
 この作品に少なからぬ影響を与えたと思われるのが、1955年に発表された「親子舟唄」です。作詞を担当したのは「浪花節だよ人生は」も手がけた藤田まさと氏。丹会長あこがれの作詞家で、会長のペンネーム「丹まさと」も藤田氏にあやかったもの。世界観こそ異なりますが「親子舟唄」も親子愛がテーマです。

丹会長の作詞家プロデビュー曲「母娘舟」。

 61歳プロデビューを果たした丹会長は、その後も活動を続け1000作以上の詞を創作。天童よしみさんやつんく♂さんなど、名だたるアーティストたちに詞を提供し、約30曲がレコードになっています。
 2009年には大ファンだった五木ひろしさんに「宿り木の花」の詞を提供。丹会長がスポーツ新聞で取材された際、五木さんへの思いを熱烈アピール。その記事を見た五木さんが快諾して、実現へと至ったのでした。作詞家冥利に尽きる、とはまさにこのこと。丹会長もわりとちゃっかりしたところがあるようですね。

知人の提案で、富士そばのBGMが演歌に

 さて、だいぶ前置きが長くなりましたが、これでやっと富士そばと演歌の関係性が見えてきました。
 では、富士そばで演歌が流れるようになったのはいつごろなのか。じつは、2001年からと、思いのほか最近のことなのです。ド演歌な人生を歩み、作詞家デビューも果たした丹会長の経歴からすると少し意外です。
 そのきっかけは、作曲家・森川龍氏からの一言でした。「丹さん、店で演歌を流しなよ」。”富士そば社長(当時)・丹まさと作詞”とPRすれば、曲の宣伝になると考えたようです。会長は「それはかっこわるい」と躊躇しましたが、結局森川氏の提案を受け入れ、USENで演歌を流すことにしました。
 この展開から「会長作詞の演歌をBGMにしている」説は覆されます。なぜなら、USENは特定の曲をピンポイントで流すことができないからです。曲のリクエストこそ受け付けてはいますが、演歌チャンネルは基本的に最新ヒットチャートが流れる仕組み。もちろん、会長作詞の曲が流れる可能性もありますが、常にヒットチャートに上がっていたとは考えにくい。
 チェーン店向けオーダーメイドチャンネルを利用した可能性も考えてみました。自由に選曲できる宣伝にうってつけのサービスですが、こちらの仮説はやや説得力に欠けます。というのも、東海林さだお氏のエッセイ『偉いぞ! 立ち食いそば』(文藝春秋)に収録された対談によると、丹会長はこう話しているのです。

ぼくの歌が出たら「1日1回はかけてね」って言ってある。

 これは、ウワサの真相解明につながる重要な発言です。

ぼくの歌が出たら「1日1回はかけてね」って言ってある。

 大事なことなので2回引用しました。新曲が出たら店でかけてほしい――、この要請は裏を返せば、会長作詞の演歌がたまにしか流れていないということ。付け加えるなら、会長は2017年ごろに作詞活動を引退しています。これらの断片的な事実を繋ぎ合わせると、筆者が冒頭で述べたように「富士そばは、会長作詞の演歌BGMにしていた」となるわけです。

丹会長が手がけた作品の数々。女性をテーマにした詞が多い気がする。

会長はなぜUSENで演歌を流したのか

 しかしながら、気になる点もあります。なぜ、丹会長はUSENの導入を選んだのか。自身の曲を宣伝したいだけなら、ミックスCDをエンドレスでかけ続ければいいはずです。
 にもかかわらず、USENを流しているのは、やはり丹会長が演歌を心の底から愛しているからでしょう。丹会長は、演歌の魅力を「普遍的な悲しみ」だと語っています。悲しさや寂しさを投影した詞、メロディがせわしなく生きる現代人の心を癒し、励ますのだと。落ちこんでいるときに明るい曲を聴いても、自分の気持ちとかけ離れてた内容では心の傷は癒されない。だから、丹会長はBGMに演歌を採用したわけです。
 富士そばを「都会の止まり木」たらしめる演歌。そこに至るまでの経緯を知ると、いつものBGMが一味違って聴こえるから不思議です。演歌を聴きに店を訪れるのも一興。富士そばのさらなる深淵へと誘われます。

●参考資料
『らせん階段一代記』(講談社サービスセンター)/『商いのコツは「儲」という字に隠れている』(インフォレスト)/『偉いぞ!立ち食いそば 』(文春文庫) /『「富士そば」は、なぜアルバイトにもボーナスを出すのか 』(集英社新書)/NIKKEI STYLE「暮らしを変えた立役者」週プレNEWS「みんなの反対を押し切った――『富士そば』で常に演歌が流れている理由とは」

▼過去のコラムはこちら
コラム1:富士そばを1500杯食べ続けて考えた「おすすめのメニュー」のこと
コラム2:同じデザインは2つとない⁉︎ 富士そば看板あれやこれや
コラム3:富士そばを取り巻く2種類のそばとは!? その謎を探るべく我々は店内奥へ足を踏み入れた
コラム4:富士そば第三の麺「乱切り蕎麦」が目指した、食感の新機軸
コラム5:珍そば・奇そばの頂点を決める! 富士そば・オブ・ザ・イヤー2021 結果発表
コラム6:意外と美味い富士そばのラーメン 定番から変りダネまで9年間をふりかえる
コラム7:富士そば未経験者の登竜門! 券売機&注文を攻略せよ!【令和決定版】

 

関連記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

PAGE TOP